เข้าสู่ระบบ扉を開けた灰乃は、玄理の手にある銀色の薬ケースを最初に見た。薄い金属の表面には床へ落ちた際についたらしい細い擦り傷が一本増えていたが、留め具は閉じたままで、無理にこじ開けられた跡もない。玄理はケースを指先で摘まむように差し出し、灰乃が受け取るまで余計な説明をしなかった。灰乃は礼を言うより先に留め具を確かめ、蓋を開いて中へ並んだ錠剤の位置を見る。自分で朝に詰め直した順番から一つも動いていなかった。
「中、見ませんでしたか」
「見てない」
「薬だとは分かったでしょう」
「ケースを振って確認する趣味はない」
玄理の返答には不快そうな色も、傷ついた様子もなかった。疑われることを当然の危険確認として受け止めているように見え、その態度がかえって灰乃を戸惑わせる。航志なら、妻に疑われたという事実を先に怒り、「夫を信用できないのか」と話をすり替えていただろう。玄理はただ、自分がしていないことをしていないと答え、それ以上を求めなかった。
「ありがとうございます」
灰乃がケースを鞄の最も深いポケットへ戻すと、玄理は短く頷いた。彼の視線が一瞬だけ灰乃の切れた唇へ向いたが、誰にやられたのかとは聞かない。代わりに扉の向こう、航志が去った方向を一度見てから、「鍵は閉めろ」とだけ言い残した。命令というより確認に近い声だったため、灰乃も反発せず扉を閉める。内部ロックが作動する音を聞いてから、ようやく肩へ残っていた緊張が少しだけ抜けた。
床へ置いた2つの紫箱は、争奪戦の最中に確保したものとは思えないほど静かに光っていた。灰乃は先に取った箱から開封し、紫の粒子が薄暗い室内へ舞い上がるのを見守る。光が消えたあとに残ったのは、掌よりひと回り大きい黒い円盤と小型の操作盤だった。説明を開くと、〈衝撃地雷〉という名称の下へ、設置範囲へ侵入した対象へ強い衝撃波を与えること、所有居室の防衛設備として使用可能であることが表示される。
「当たりね」
威力は感染者を確実に殺せるほどではないが、扉への接近を一度崩せるだけでも価値はある。灰乃はすぐに使わずアイテムスロットへ収め、もう1つの紫箱へ手をかけた。こちらは開封した瞬間に光が弱く、出てきたものも終末の特殊装備とは思えないほど古びていた。木目調の外装へ黒いダイヤルが2つついた、小型の卓上ラジオだった。
スピーカーの布は色褪せ、アンテナの先には細かな錆まで浮いている。灰乃が怪訝に思いながら触れると、ラジオの上へ説明窓が開いた。
〈ご近所互助ラジオ〉
〈ご近所さんが亡くなった際、残されたコインの一部を助け合いの精神で受け取りましょう!〉
さらに詳しい説明には、同一高危険区域で死亡したプレイヤーの未使用コインから一定割合を抽出し、設置者へ互助金として自動分配すると記されていた。死亡者との面識も合意も必要なく、受け取る側が死体へ近づく必要さえない。生きている間に貯め込んだ数字が、本人の死と同時に見知らぬ誰かへ「助け合い」として渡る。軽薄な名称と仕組みの悪辣さがあまりにも噛み合っていなかった。
「趣味が悪い」
灰乃はそう呟きながら、設置確認には〈はい〉を押した。好きか嫌いかと、生き残るために使えるかどうかは別の話だった。ラジオは壁際の棚へ移動し、自動的に電源が入る。砂嵐のような雑音のあと、陽気な女性の声で「本日もご近所仲良く助け合いましょう」と流れ、灰乃は眉を寄せた。
午前中から続いていた箱の争奪は、昼に近づくほど激しくなった。扉越しにも怒鳴り声と金属音が聞こえ、時折、短い銃声が廊下の奥から響いてくる。銃器を手に入れた者が出始めたことで、武器を持たない者が箱へ近づける機会は急速に減っていた。灰乃は外へ出ず、紫箱の取得位置と、世界チャットへ流れてくる死亡報告を照らし合わせながら次の行動を考えていた。
ラジオが突然、玩具のように明るい音を鳴らした。
〈プレイヤーD-441死亡〉
〈互助金32コインを受領しました〉棚の上のラジオから硬貨が転がるような効果音まで続き、残高が32増えた。灰乃が表示を見つめている間にも、遠くで再び銃声が鳴った。数十秒後、また同じ音楽が流れる。
〈互助金81コインを受領しました〉
その次は47コインだった。誰が死んだのか、どうやって死んだのかを灰乃は知らない。部屋から一歩も出ていないのに、廊下の向こうで命が消えるたび、自分の資源だけが増えていく。胸の奥へ薄い不快感が残ったが、受領拒否の機能はなく、ラジオを撤去する選択肢には指が向かなかった。
死者を悼める余裕がある人間から先に、安全を失う世界だった。灰乃自身、誰かの死を望んでいるわけではない。それでも他人が死んだ結果として手元へ来たコインを捨てれば、その死が戻るわけでもなかった。だったら使う。そう決めて残高を確認し、居室強化へ必要な数字に届いたところでLEVEL4への昇格を選択した。
室内全体が低く震え、扉周辺の金属が一段厚く組み替えられた。壁の一部が奥へ引き込まれ、代わりに4枚の監視画面が並んで現れる。天井近くにも小型カメラが生成され、扉前だけではなく、左右の廊下と連絡通路まで視界に収められるようになった。〈監視機能を解放しました〉という通知の下へ、録画保存時間と死角警告の設定が追加される。
灰乃が画面を切り替えると、外の惨状が音より鮮明に映った。赤箱を抱えて逃げる男を3人が追い、そのうち1人が背後から殴られて床へ倒れる。倒れた者の腰から別の人間がナイフを抜き取り、まだ息があることを確認するより先に自分の鞄へ入れた。別の画面では女が死体の靴を脱がせ、水筒と防護具を剥ぎ取っている。箱を得るために人が殺され、殺された人間自身も次の資源へ変わる光景は、感染者に襲われるより人間らしい分だけ嫌な生々しさがあった。
監視画面の端へ世界チャットの通知が重なった。灰乃が開くと、航志が始めた話題へ新たな書き込みが続いている。その中に網代泉帆の名前を見つけた瞬間、灰乃は内容を読む前から何が書かれるのか予想できた。
〈航志さんの奥さん、家族用の物資まで独占しているみたいです〉
数秒後、続けて文字が流れる。
〈こんな時なんだから助け合えばいいのに〉
〈航志さん、本当に心配していました〉 〈病気があるならなおさら1人で行動するのは危ないと思います〉強い非難の言葉は一つもない。灰乃を嘘つきとも、冷酷とも直接書かず、「心配」「助け合い」「危険」という誰も否定しにくい言葉だけを並べている。ところが読み手の間ではすぐに、「家族を見捨てた女」「夫の物資を奪った妻」という意味へ変換され始めた。泉帆が終末以前にSNS運用の仕事をしていたことを、灰乃は今さら思い出した。
1周目でも同じだった。灰乃が命懸けで持ち帰った食料を食べ、清潔な水を飲み、衣服を使い、負傷した灰乃のための医療用品まで自分の犬へ使いながら、泉帆は「灰乃さんは家族にもっと優しくした方がいい」と言った。自分が誰より多く受け取っている事実は口にせず、灰乃が差し出す量だけを問題にした。周囲も、弱そうに笑う泉帆と無表情な灰乃を並べれば、どちらが庇われるべきか簡単に決めた。
「変わらないのね」
返事をする相手のいない部屋で呟き、灰乃はチャットを閉じた。腹が立たないわけではないが、泉帆と言葉を重ねることが無意味なのも知っている。正しさを証明するために自分の資源を消耗した1周目とは違い、必要なら誤解されたままで構わなかった。生きていれば、評価など後からいくらでも変わる。死ねば何も残らない。
そのとき、右端の監視画面へ黒い救助用ジャケットが映った。縵谷玄理だった。大型斧は背中側へ固定され、片手には赤箱から得たものらしい黒い長方形のケースを持っている。彼は周囲を警戒しながら灰乃の部屋まで来ると、扉から1歩離れた位置で止まった。
灰乃はインターホンをつないだ。
「今度は落とし物じゃない」
玄理が先に言った。
「何ですか」
「お前の夫が、今夜この部屋を壊すって3人に話してた」
灰乃の視線が自然に監視画面の別区画へ動いた。航志の姿は映っていないが、今朝からの態度を考えれば驚く情報ではなかった。正面から資源を奪えないなら、扉を破る。家族だから開けろという理屈が通用しなくなれば、次は力で入ろうとする。航志がやりそうな順番としては自然だった。
「対価は?」
「ない」
灰乃は数秒黙った。玄理も言い直さない。
「1番信用できない答えですね」
「そうか」
「知らない相手に、理由もなく情報だけ渡す人はいません」
玄理は一度だけ天井を見た。考えるというより、灰乃が納得できる形を探しているようだった。
「じゃあ缶コーヒー1本」
「持ってません」
「ならいい」
本当にそれだけ言い、玄理は身体を廊下の奥へ向けた。値段を吹っかける様子も、恩を売る気配もない。その背中へ、灰乃の視界の端に残っていた金色の攻略表示が急に広がった。
〈限定ミッション発生〉
〈対象と10秒間接触してください〉 〈報酬:局所防御膜〉灰乃の目が報酬欄で止まった。局所防御膜の詳細を開くと、指定した一か所へ一定時間だけ追加防御値を与えられるとある。航志が今夜この部屋を壊すつもりなら、今まさに必要な装備だった。問題は条件だが、接触としか書いていない。方法の指定も、相手側の同意条件もなかった。
「縵谷さん」
玄理が振り返る。
「何だ」
灰乃は内部ロックを解除して扉を開けた。玄理の眉がわずかに動く。数時間前に航志から暴力を受けたばかりの女が、ほとんど知らない男に対して自分から扉を開ければ、警戒するのが普通だった。
「手を貸してください」
「何に」
「手です」
玄理が黙った。灰乃は返事を待つ時間さえ惜しく、彼の右手首を取って掌を握る。厚い掌には斧を扱った硬さがあり、指の付け根には古い傷がいくつも重なっていた。突然握られた玄理の手は一瞬だけ強張ったものの、振り払われることはなかった。
攻略画面の数字が10から減り始める。灰乃は玄理ではなくカウントを見ていた。9、8、7と進む間、玄理は何も言わない。5秒を切ったところで、彼の視線がつながれた手から灰乃の顔へ移った。
残り1秒が消える。
〈条件達成〉
〈局所防御膜を獲得しました〉灰乃はすぐに手を離した。
「ありがとうございました」
玄理はその場に残ったまま、自分の右手を一度見た。握られていた場所に何か残っているか確かめるような仕草だった。
「……今のは?」
「防御装備が手に入りました」
「説明になってない」
「必要な条件だったので」
「何の条件だ」
灰乃が答えようとしたところで、廊下全体へ大きな通知音が響いた。世界チャットの管理欄へ〈虚偽情報による死亡誘導行為を確認しました〉という警告が表示され、直後に複数の記録が公開される。泉帆が匿名設定を利用して「北側補助通路に無人の赤箱がある」と流した情報、その位置へ向かったプレイヤーたちが待ち伏せに遭った映像、さらに待ち伏せ側の1人と泉帆が事前にやり取りしていたログまで並んでいた。
生存者の反応は早かった。監視画面の一つで、人の流れが急に同じ方向へ動き始める。泉帆は中央通路の壁際へ追い詰められ、栗色の髪を乱しながら何度も首を振っていた。彼女の周囲には武器を持った5人以上が集まり、その中には虚偽情報で仲間を失ったらしい男もいた。
「違うの、私、そんなつもりじゃなかった。聞いた情報を共有しただけで……」
声は監視マイクにも届いていた。泉帆は自分を囲む者ではなく、その向こうに立つ航志へ顔を向ける。航志は数歩離れた場所で足を止めていた。腰には武器があり、走れば届く距離だった。
「航志、助けて」
泉帆が手を伸ばした。終末開始日に灰乃のカーディガンを羽織り、航志の背中へ隠れていた女と同じ声だった。航志は動かなかった。周囲の人数と武器を見て、自分が割って入った場合の損失を測っているのが、画面越しでも分かった。
灰乃は玄理が隣にいることを忘れたように監視画面を見つめた。航志は誰かを愛しているから守るのではない。守っても自分が損をしない間だけ、その人間を庇う。1周目に灰乃が鉄扉の外へ残されたときと同じ計算が、今度は泉帆へ向けられていた。
乾いた銃声が1発響いた。
泉帆の身体が後ろへ揺れ、壁へ肩をぶつけてから床へ崩れた。航志がわずかに身を引く。誰かが悲鳴を上げたが、撃った男は銃口を下げず、周囲もすぐには近づかなかった。数秒後、システム表示が機械的に開く。
〈プレイヤー網代泉帆・死亡〉
同時に、灰乃の部屋から場違いなほど明るい音楽が流れた。棚の上に置いた〈ご近所互助ラジオ〉が、祝福でもするような軽快さで鳴っている。
〈ご近所互助金を受領しました!〉
灰乃は増えた数字を見たまま、1周目のある夜を思い出した。自分の腕から血が滴り、裂けた傷の縁が熱を持っていた。命懸けで持ち帰った医療ボックスを開けた泉帆は、消毒薬を犬の足へ吹きつけ、新品のガーゼを何重にも巻いていた。
「全部使わないで。私の腕にも残して」
そう頼んだ灰乃へ、泉帆は犬を胸へ抱き上げた。
「この子は自分で痛いって言えないんだよ?」
隣では登志江が困ったように眉を下げ、航志は止めもしなかった。灰乃の腕から床へ血が落ちていても、泉帆の犬の小さな傷の方が優先された。灰乃自身が集めた薬だったのに、それを自分のために使わせてほしいと頼む側に立たされていた。
現在の画面では、泉帆の死亡表示がすでに灰色へ変わっている。その下で、互助金として移されたコインが灰乃の残高へ加算された。泉帆が死んでも、奪われた水も、薬も、傷ついた腕も戻らない。それでも1周目に灰乃の命を削って利益を得ていた女の死が、今度は灰乃の居室を強化するための数字へ変わった。
玄理が監視画面から灰乃へ視線を移した。何を考えているのか尋ねることはなく、泉帆が死んだことを喜べとも悲しめとも言わない。その沈黙がありがたかった。灰乃はラジオの明るい音楽が止まるまで画面を見つめ、それから局所防御膜を扉周辺へ設定した。
午後6時を示す数字が赤へ変わった。
高い天井に並んでいた白い照明が、奥から順番に消えていく。中央区画でまだ死体から装備を回収していた人間たちが慌てて自分の居室へ走り、鉄扉が閉まる音が長い廊下へ次々に響いた。最後の白い光が消えた瞬間、暗闇の中で低い警報が鳴る。
玄理は自分の部屋へ戻るため、大型斧へ手を掛けた。灰乃も扉の内側へ下がり、閉じる直前に暗い通路の奥を見た。昼間に流れた血の匂いが残った廊下から、人間とは違う足音がいくつも近づいてくる。
〈夜間規則へ移行しました〉
表示が一度消え、赤い文字へ切り替わった。
〈夜狩りを開始します〉
〈フロア・パージ〉の詳細説明が始まる。新たに接続された居住区では、各プレイヤーへ6時間ごとに〈生存家賃〉が課される。家賃は固定額ではなく、その時点における全プレイヤーの支払額によって順位付けされ、上位半数だけが居住権を維持できる。下位半数は〈家賃滞納者〉として居室を没収される。没収後に何が起きるのかは説明されない。ただしシステムは冷淡に告げる。〈居室を失ったプレイヤーの生存は保証されません〉航志はすぐに灰乃のコインへ目をつける。夫婦共同所有なら灰乃が稼いだコインも共有資産として扱われるはずだと主張し、自分の生存家賃へ使おうとする。だが灰乃は、航志が共同所有権を成立させた瞬間から〈連帯支払〉を有効化する。航志の画面が赤く光る。〈共同所有者間の債務を統合しました〉〈度会航志の所持コインから共同居住維持費を徴収します〉航志のコインが一気に減る。「おい、何した!」「夫婦なんでしょう?」灰乃は静かに返す。「私の財産があなたのものなら、あなたの財産も私のものですよね」航志は初めて、自分が取得した配偶者権限が一方的な支配権ではないことを理解する。さらに灰乃は薬ケースについて〈生命維持用個人医療品〉として所有権異議申立てを行う。診断情報と過去の処方履歴がシステムへ照合され、薬ケースは共有財産ではないとの判定が下る。航志の手から銀色のケースが消える。次の瞬間、灰乃の手の中へ戻る。灰乃は蓋を開け、錠剤の数を確認する。1錠も減っていない。その様子を見ていた玄理が短く息を吐く。航志は怒りを隠せない。「そんなに俺を敵に回したいのか」「逆です」灰乃はケースをしまう。「最初から敵だった人を、ようやく敵として扱っているだけです」そこへ第1回家賃額の暫定ランキングが表示される。玄理は十分なコインを持っている。灰乃も〈ご近所互助ラジオ〉によって余裕がある。だが新たに合流したプレイヤーの多くは、圧倒的に足りない。24人の視線が互いの所持品へ向き始める。そして世界チャットへ最初の書き込みが流れる。〈殺した相手のコインは誰が受け取る?〉誰も答えない。その数秒後。廊下の奥から銃声が響いた。
扉が開ききるまでの数秒が、灰乃には異様に長く感じられた。補強された金属板の向こうから最初に見えたのは、航志の右手に握られた銀色の薬ケースだった。そのあとに整えられた短髪と、終末前から変わらない穏やかな顔が現れる。背後では長い廊下の白い照明が航志の輪郭を縁取っており、感染者も砲撃も存在しない夕方に仕事から戻ってきたような光景だった。違うのは、ここが灰乃自身の手で獲得し、強化し、命を守るために閉ざした居室であり、その扉を灰乃が一度も許可していないのに夫が開けたということだった。「ただいま、灰乃」航志はそう言うと、玄関の境界を当然のように越えた。床の手前で靴を脱ぎ、揃えて端へ寄せる仕草まで、以前住んでいたマンションと同じだった。まるで何日も前からここで暮らしていた夫が帰宅しただけのように、室内を見回しながら一歩進む。その足が完全に居室へ入る前に、玄理が灰乃と航志の間へ身体を滑り込ませた。「止まれ」玄理の声は低く、大きくはなかった。それでも航志の足が一瞬止まり、黒い長柄武器へ伸びた玄理の手へ視線が落ちる。右肩の傷を庇っているとは思えないほど動きは速く、あと半歩でも航志が近づけば、そのまま武器を振れる距離だった。茉緒は奥で啓吾を壁際へ下げ、灰乃自身もいつでも扉側から離れられるよう重心を移した。玄理の指が武器の柄を握り込んだ瞬間、室内へ鋭い警告音が響いた。赤い光が2人の間へ垂直に走り、半透明のシステム表示が強制的に展開される。玄理の武器には触れていないのに、見えない抵抗へ押し返されたように先端が止まり、床から淡い赤色の格子が立ち上がった。灰乃は反射的に表示を読み、攻撃を止めるよう玄理の腕へ手を添えた。〈共同所有権保護期間中です〉〈共同所有者または第三者による故意の殺傷行為を確認した場合、対象居室の保護機能を停止します〉警告の下には、保護停止の対象として防御障壁、外部侵入拒否、夜間保護、収納保全の4項目が並んでいた。航志をここで傷つければ、彼1人を追い出せるかどうか以前に、この部屋そのものが感染者や他プレイヤーへ開かれる可能性がある。玄理も同じところまで読んだらしく、武器を下ろしはしなかったものの、刃先だけを床へ向けた。航志はその変化を確認すると、右手の薬ケースを見せつけるように持ったまま薄く笑った。「残念だったな。ここは俺の部屋でもあるらしい」「私の部屋で
航志に薬ケースを奪われてから、灰乃が最初にしたのは残っている予備薬をすべて机の上へ並べることだった。普段は銀色のケースへ数日分だけ移し、残りを別に保管していたため、完全に手元から失ったわけではない。それでも、袋から出した錠剤を一つずつ数えていくと、安心できる量ではなかった。終末以前のように病院へ行けば処方してもらえる世界ではなく、次に同じ薬が手に入る保証もない。広告恩寵で医療品が出る可能性はあるが、必要な薬剤を指定して引き当てられる仕組みではなかった。茉緒は灰乃の向かいへ座り、薬の包装と灰乃が覚えている処方内容を照らし合わせた。安全区域で検出された潜伏感染者が誰なのかは依然として分かっておらず、4人は一定距離を保ち、直接触れる物も共有しないようにしている。それでも灰乃の薬が奪われたことを知ると、茉緒は自分の居室から持ってきた医療記録用の端末を広げ、心疾患の薬剤候補を一つずつ確認した。表情はいつも以上に険しく、少しでも曖昧な情報が出るたびに灰乃へ問い直す。「代替薬を適当に使うな。心臓の薬は名前が似てるからで選ぶものじゃない」「分かっています」「分かってる奴が、残りを日数で薄く割って飲もうとするなよ」灰乃は返事をしなかった。考えていたことを見抜かれたらしい。薬を長く持たせるため服用間隔を勝手に延ばせば、必要な血中濃度を維持できず、かえって危険が増す可能性がある。茉緒は人間専門の医師ではないと言いながら、その程度のことを知らないほど薬剤知識が浅いわけではなかった。「なら取り返す」茉緒は断定するように言った。灰乃は机の端へ指を置き、航志から届いた再統合審査の残り時間を見る。22時間余り。審査が終わるまで1時間ごとに何かが奪われる可能性があり、次が薬とは限らない。武器、防御設備、保存水、それどころか広告恩寵に関係する端末まで〈共有必需品〉と判定されれば、航志の手へ移る可能性がある。残り時間を待ってから動くという選択は、最初から存在しなかった。玄理は壁際に立ったまま、灰乃の薬と残高表示を交互に見ていた。やがて自分の端末を開き、医療系ランダムボックスの出現情報を検索する。ランキング上位の彼が持つコインは少なくなく、さらに赤箱から得た物資もいくつか残っているらしい。「俺のコインを使う。医療ボックスを買える奴を探す」「必要ありません」「必要だろ」「あなたの資
安全区画を出た4人は、互いに2歩以上の距離を取ったまま中央通路へ散った。〈潜伏感染反応を1名検出しました〉という表示は消えず、誰が該当者なのかだけが頑なに伏せられている。茉緒は最初に自分の手首と首筋を確かめ、啓吾にも袖をまくるよう指示したが、目視で分かる噛み傷や引っかき傷は見つからなかった。玄理の右肩と左腕には夜狩りで負った傷があるものの、いずれも感染者の体液が直接入った形跡はなく、灰乃も自分に共有された浅い裂傷以外に異常を感じていない。それでもシステムが反応した以上、誰か1人の身体の中で何かが始まっていることだけは確かだった。「全員、自分の部屋に戻るまで誰にも触るな。体温、意識状態、瞳孔、痙攣の有無を30分おきに確認する」茉緒の声には苛立ちが混じっていたが、恐怖で判断を失ってはいなかった。人間専門の医師ではないと言いながら、少なくとも何もせず待つよりはましな監視手順を組み立てている。啓吾は青ざめた顔で何度も頷き、玄理は灰乃の腕へ視線を向けたあと、自分の傷口を見下ろした。灰乃も同じことを考えていた。バインドで負傷を共有している以上、感染まで共有されるのかは表示されていない。もし玄理が感染していれば自分へ影響する可能性があり、逆も同じだった。安全区画の白い外壁が背後で沈み始める。7人を消した霧も、そこへ縋りついていた手の跡も、数分前の出来事とは思えないほど綺麗に消えていく。その空白を見つめていた灰乃は、天井近くのメンテナンスパネルが開く音に気づいた。砲撃で破壊された箇所から1人の男が降りてくる。配線を掴んで床へ着地した航志は、服の肩や膝へ埃をつけながらも怪我らしい怪我をしておらず、自分だけが別の逃げ道を見つけたことへ安堵したような息を吐いた。灰乃と目が合うと、航志の表情が変わった。安全区画の外で7人が消えたことより、灰乃が4人の枠へ入って生き残ったことを確認した時の方が目の奥へ強い光が宿る。その視線は、昼間に紫箱を抱えていた灰乃を見た時と同じだった。妻が無事だったことへの安堵ではなく、まだ自分の手へ戻せる資源が残っていると確かめた人間の目だった。「灰乃」呼ばれても灰乃は動かなかった。玄理が半歩だけ身体の向きを変え、航志と灰乃の間へ割って入れる位置を取る。茉緒は感染反応の件がある以上、今ここで余計な接触を増やすなと言いたげに眉を寄せたが、航志はそんな空気を
〈閉鎖まで残り10分〉という数字が点灯した直後、安全区画の周囲へ新しい表示が重なった。乳白色の壁に守られた内部には、大人が十数人立っても余裕がありそうな広さがある。それなのに入口の上には〈入室可能枠:4〉と明記され、その下へ〈入室には避難鍵が必要です〉という条件が追加された。さらに4つの光点が区域図上へ散らばり、〈避難鍵を配置しました〉と通知された瞬間、それまで互いの様子を窺っていた12人が一斉に走り出した。誰かが先に動けば、残りも止まってはいられない。灰乃は中央から最も近い北側の光点を選び、玄理とは別方向へ走った。肩の痛みも睡眠不足も残っていたが、今は自分の身体を完全に休ませる余裕がない。廊下の角を曲がると、壁面の非常設備箱が白く発光しており、その中に親指ほどの銀色の鍵が浮いていた。灰乃が掴むと〈避難鍵・所有者登録完了〉という表示が出て、残る光点が3つへ減る。玄理もほぼ同時に西側の鍵を確保したらしく、区域図上で彼の名前へ鍵の印がついた。その動きに迷いはなく、自分の分を取った直後から周辺の生存者の位置まで確認している。3本目の鍵を得たのは椹木啓吾だった。電子錠や建物構造へ詳しい彼は、他の者が点滅する案内表示だけを追う中、サービスパネルの裏側へ回り込み、非常用配線に沿って出現位置を特定したらしい。細い身体を壁際から滑り出させた時には、すでに銀色の鍵を握っていた。残り1本。その表示が出た途端、中央南側へ5人が殺到した。その中に航志もいる。鍵は天井から吊られた非常梯子の下へ出現し、最初に飛び込んだ男が指先で触れかけたところを、別の男が肩から突き飛ばした。床へ倒れた身体を航志が踏み越え、横から伸びた腕を肘で払い除ける。昼間の箱争奪戦と変わらない殴り合いが始まり、誰も鍵以外を見なくなった。土師茉緒だけが、その輪へ入っていなかった。少し離れた壁際で、争奪戦の最初に転倒した男の傷を押さえている。男は脇腹を何かの刃で深く切っており、指の間から大量の血を流していた。茉緒は自分の安全区画入りが遅れることを理解しているはずなのに、シャツを裂いて圧迫し、出血点を確かめながら「押さえろ、死にたくなきゃ手を離すな」と怒鳴っていた。玄理がその姿を見た。自分の鍵を握ったまま数秒立ち止まり、そのまま茉緒の方へ歩こうとする。「これを使え」茉緒が顔を上げる前に、灰乃は玄理の腕を掴んだ。
『大好きな家族に、もう1度会いたいですか?』明るすぎる少女の声が、血と消毒薬の匂いが残る居室へ響いた。灰乃は反射的に黒い端末へ手を伸ばし、画面端の閉じる表示を押したが、指先の下で白い印が一度沈むだけで映像は消えなかった。音量ボタンも反応せず、机へ伏せても再生は止まらない。終末前の住宅広告を思わせる明るい居間では、数十分前に玄理自身の手で処置された小春が、黄色いウサギのリュックを背負って笑っていた。画面の中の小春には首の後ろの噛み傷も、発症前に浮かんだ汗もない。頬には健康な赤みがあり、黒髪は左右へ綺麗に結ばれ、その背景には白いカーテンと湯気の上がる食卓まで映っている。窓の外では鳥が飛び、誰かが焼いたらしいパンが籠へ盛られ、終末など最初から存在しなかったような光景だった。灰乃がほんの少し視線を外すと映像は停止し、〈視聴を継続するには広告をご覧ください〉という文字が中央へ浮かぶ。まるで死んだ子どもの姿を最後まで見つめることまで、報酬の代価として要求しているようだった。『今だけ家族再会キャンペーン!』軽快な電子音が弾け、小春の横へ色とりどりの風船が浮かんだ。少女は両手を広げ、その後ろでは顔の見えない男女が食卓へ料理を並べている。母親と父親を模しているのかもしれないが、小春の本当の家族なのかどうか、灰乃には確かめようがない。その画面下へ、報酬欄がゆっくりと開いた。〈最後まで視聴すると安全区域情報を獲得できます〉玄理の顔から残っていた血の気がわずかに引いた。彼は壁際に置いた黄色いリュックと端末の中の少女を交互に見てから、低く言った。「見るな」灰乃は端末を持ち直した。「見ます」「蓼丸」「情報が必要です」「他の方法を探せ」灰乃は答えず、表示された選択肢へ目を落とした。〈スキップする・報酬なし〉と〈最後まで見る〉。安全区域という言葉がどこまで信用できるかは分からないが、少なくともシステムがわざわざ報酬として提示する以上、この高危険区域を生き残るために関係する情報である可能性は高い。目の前にある情報を、苦痛だからという理由だけで捨てる余裕はなかった。灰乃が〈最後まで見る〉を押すと、30秒のカウントが始まった。小春は画面の中央へ座り、白い皿へ桃の缶詰らしい果肉を並べている。黄色いリュックの少女が桃を好きだったことを、灰乃はまだ知らない。それでもあまりにも生活







